「……吹きましたね」


 そして、全ての策が成る。















赤壁の戦い















 は今、遠くに剣戟の音と鬨の声を聞いている。
空が紫から紺色に変わった頃、がいるのは日中と同じ、目にせずに敵陣容を丸裸にした部屋。
諸葛亮も劉備もおらず、ただ一人だけこの場に取り残されている。


『実際の戦いを見せるのは、やめておきましょう。』


諸葛亮の静かな一言で、の居残りが決まった。
赤壁賦ともなった戦を見られない決断には当然不満だらけで、残されるは文句を言ったが。
こちらの事情を知っている二人は、ただ困ったように笑うだけだった。

今ならその理由が分かる。


「戦い、見に行かなくて正解だったかも……」


一人呟きながら、胸元の服をぎゅっと握る。
胸がざわざわとして落ち着かない。
大勢の人間が戦っている音がする。

それはすぐ近くで、命の駆け引きが行われている証。

奪い、奪われる、戦争。
自分にはまず害は及ばないであろう所にあっても、じわりじわりと不安になる。


「戦争なんて遠い国の出来事だもんなぁ……」


ニュースで世界のとこかで起きている戦争の報道がされていても、所詮は遠い国の話。
ぬくぬくと日本で生きてきた自分には理解しにくい、対岸の火事のような、いわば他人事。
こうして戦場と隣接していれば、怖いとは思うけれど。
自分は戦争というものを甘く見過ぎているのかも知れない。

こうして戦の音に怯えている今でさえ、不謹慎にも戦場を見に行きたいなどと思っている部分があるのだから。


「うぅぅ、早く終わらないかなぁ……」


知らない物への好奇心。
いつもは好ましくさえ思うそれが今回向いている方向を、理性で叱咤する。

は椅子の上で小さくなりながら、早く戦の音が止んでくれる事を祈った。















 魏軍の大船団は、殆どが炎上し長江に沈んだ。
曹操はやむなく辛うじて延焼を免れた船に乗り込み逃亡。
この期を逃してなるものかと、連合軍は追撃の号令を下す。

赤壁に来た時の大兵力は失われ、曹操が引き連れるのは当初に比べ遙かに減った兵。
且つ、曹操自身も相当に疲弊している状況。
追撃して討ち取るなど容易い。


その筈だった。




「こっちだ!孟徳!」


曹操を追う連合軍の前に現れたのは、魏将夏侯惇。
続いて曹仁、張遼、夏侯淵……と、続々と援軍が到着する。

伝令兵によりその旨を聞いた諸葛亮は、僅かに眉を寄せる。


「援軍が、早すぎますね……もう少し追い詰めるつもりだったのですが」


まるで魏軍の敗走を、そうなる前から予知していたような、、、、、、、、、、、、、、、、
そう勘繰りたくなる程、曹操の許に集った者達の動きは迅速だった。
こちらも至る所に兵を潜ませておいたというのに、曹操はどんどん先へ進んでいる。
敗走した後の動きが読める程切れ者の軍師がいるのか?


      魏軍が 負ける ?


「……もしや……」


諸葛亮の頭に、ある仮説が浮かぶ。
否、それは既に彼の中で事実として認識されていた。

頭の切れる軍師が相手方にいるのではなく、戦の大局を知っている者がこちらにいるではないか、、、、、、、、、、、

そしてその者と一日同じ部屋にいた、、、、、、、、、、魏の者が。




「行かれよ。拙者は忘恩の徒にはなれぬ……」


 折しもその時、曹操に恩義ある関羽が、彼の退路に立ちながら、逃亡を見逃し。




「徐庶殿の仰っていたことは正しかったか……。殿!こちらです!」


赤壁の戦場から少し離れた所に設営されていた拠点から出てきた荀イクの援軍により、魏軍に微かな希望の光が差した。















「お帰りなさい!劉備様、諸葛亮さん!無事でよかった」


 戦場の音が遠のいて大分経ってからようやく部屋に戻ってきた二人を、は満面の笑みで迎えた。
知った顔を出迎えて、これ程安心した時は今まであっただろうか。

自分が不安だったからという事もある。
だがそれ以上に、彼らが無事戦いから帰ってきた事が、は何より嬉しかった。

その心中を察したのか、微笑む劉備の手が頭をぽんぽんと叩くように撫でる。
それだけで、ざわついていた心が急速に宥められていった。
凪いだ心に自然と安堵の溜息が漏れる。


「あの、戦はどうでしたか?」
「無論、我らの大勝だ。曹操は船を捨て逃げていった」


残念ながら討つまでに至らなかったが、と続いた劉備の言葉を気に留め、は諸葛亮を見る。
先程部屋に入ってきてから一言も口を開いていない。

の視線に気付いたのか、入り口付近で立ち止まっていた諸葛亮はやっと二人の傍に寄ってきた。
彼の無事も嬉しい。
にっこりと笑いかけると、彼の顔に苦笑が浮かび、小さくありがとうございますと呟くのが聞こえた。


殿、牢に一人、男がいましたね」
「え?はい……戦の日の朝起きたら居なくなってましたけど」
「今回の戦の勝敗など、彼に話しましたか?」
「………はい。どっちが勝つかの『予想』や、魏軍が負けた時どんな行動が『一番役に立つのか』とか」


前振りのない問いかけにも、戸惑いつつきちんと答える。
偽る必要などないから正直に。

名も知らぬ彼には、あくまでも自分の予想という形で意見を述べた。
連合軍の策を耳に入れた上で、戦の流れの見極め方を考えたように語った。
あの男に不自然に思われているとは思っていなかったが……

……もしかして、してはいけない事だったのだろうか。

不安げな顔をするに、諸葛亮は苦笑を返す。


「構いませんよ。結果的には計算通りでしたから」


その瞬間、の目が輝いた事を蜀軍二人組は知らない。
生『計算通りです』を聞けて感動しているなど、この場にいる誰が知り得よう。


「それにしても、お聞かせ願いたいですね。三国の世の行く末を語らない貴女が、何故この戦いの勝敗は口にしたのか」


未来から来た娘が、魏軍の『彼』に此度の戦局を教えたと確信して、諸葛亮はやや硬質な声音で問う。
彼女のいた世がどんな所だったのか知らないが、は呆れる程危機感がない。
それ故に、ともすれば金よりも価値のある『未来の情報』を、『彼』と話している内につい口にしてしまったかも分からない。

彼は魏の『本陣』との接触を断つという約定は、果たしてくれただろう。
だからこそ拠点からの援軍があそこまで早かったのだ、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
魏軍が負けると、敗走する前からその情報がいち早くもたらされていたのだ。

『彼』の選択は間違ってはいない。
こちらとの約定は果たしてくれたし、今の主君である曹操の危機をも救った。

戦場とは、そういう物だ。

諸葛亮の問いに、が振り返る。


「あぁ、それは諸葛亮さんに寄る所が大きいです」
「……私に?」


真摯な面持ちの諸葛亮とは裏腹に、はあっけらかんと事も無げにそう返した。


「負ける方に教えても問題ないかなって。教えたって言ってもあくまで『私の勘』って形で話した……つもりですし。
勢いづいた連合軍が壊滅寸前の魏軍に返り討ちに遭う事もないだろうし……それに曹操の事、見逃すつもりだったんでしょ?」
「何っ、本当か諸葛亮!?」
「……ええ、今討つのは得策ではないと思い」


決定的なものとはせず、戦に暗いながらも考えて辿り着いた結論として。
無意識であろうが、諸葛亮の憂慮を打ち消すように、は『勘』という言葉でまとめて暗に示した。


「そう考えてたから、曹操に恩のある関羽さんを討伐軍として向かわせたんですよね。何かで読みました」
「何と……そんな事まで伝わっているのですか……」
には、そなたの策も筒抜けだな」


劉備の静かな笑い声が響いた。
戦の後とは思えない、穏やかな雰囲気がそこにはあった。
彼らとて戦に出た以上は人を殺してきたのだろうが、今は敢えて考えない。
そうする事が戦だらけのこの世界では当たり前の事なのだし、人を手にかけていても、彼らは『いい人』だ。

今だけで良い。
一時でも戦は終焉を迎えたのだから、暗い思考は頭の外へ追いやろう。




      戦が 終わった




「そうだ、殿。これを」
「ん?」


束の間の安堵に浸っていると、諸葛亮に呼ばれた。
内々に沈んでいた思考を引き戻し視線を向けると、彼はこちらに向かって何かを差し出している。


片手で持てる小さな箱は、ひどく見慣れたパッケージ。


「あ!!私のポッキー!?」
「見慣れない文字と模様で、すぐに貴女のものだと分かったのですが、返す機会を逸してしまい……少々遅くなってしまいましたね」
「いえいえ全然構いませんよ!うわーすっかり忘れてた……」
殿、ぽっきーとは?」
「んーと……お菓子…で伝わるかな……点心?みたいな奴です」


指を折って数えてみれば、ほんの数日。
たったそれだけの短い間目にしていなかっただけなのに、そのデザインにひどく懐かしさがこみ上げてきた。
コンビニに立ち寄れば必ずと言って良い程見かける箱。
あまりに身近ですぐ手に入る物だったから、二、三ヶ月目にしなくても口にしなくても全然気にしなかったのに。
己が抱く思いに、自分の時代とは違う場所に居る事の実感が改めて湧いた。

そして募るのは、一人で見知らぬ土地にいるという、不安。
引き返せる道などない。
先の見えない中進まなければならない所に、は突如放り出されてしまったのだ。

これまでは知った顔がいた為か随分と冷静でいられたが、そろそろ自分の身の振り方を真剣に考えなければならない。

文化が違えば国も違う。
時代すらも。
この時代の子供でも知っている事が分からない白紙の状態から、自分はまず生きる術を見つけなければ。


      これから どうしよう ……


「我らの知らぬ事が沢山あるのだな……。という事は、そなた、ここの事は右も左も分からぬだろう?」
「…え?あ、はい…」


丁度考えていた事に対する問いであった為、は少なからず驚いた。
読心術でも心得ているのかと劉備の顔を窺うが、彼はただいつもの笑顔を浮かべているだけである。
やましいことを考えていた訳ではないが、ほっとした。

ポッキーから意識を話して、劉備に向き合う。


「どうだ、そなたさえ良ければ、私の城へ来ないか?」


途端、切り出された提案が、


「………………」


耳に届き、言葉として認識され、が意味を咀嚼し理解するまで、ゆうに十秒。




「……んマジですかっっ!!?」




降りた沈黙を吹き飛ばす大音声が、室内に響き渡った。




















あっさりさっぱり、赤壁の戦いが終わりました。
ヒロインが名前も知らない彼(徐庶)に言った事が、どんな形で戦局に関わっていくのかを書ければ良かったので。
一応ヒロインの望む通り、三国志に記されてる通りに歴史が動きました。
これでほんのちょっとずつだが三国それぞれに繋ぎが出来た訳だね!!!(笑)
良かった、これでヒロインを三国それぞれにぐるぐる回せるよ!!!

戦を知らない世代のヒロインですが、漠然とその怖さは知ってます。
だからこそ劉備達の理不尽なお留守番役拝命も受けました。好奇心は消えてないので渋々ですが。
すぐ傍で人の生き死にに関わるやり取りがされてて平気な人なんてそうそういない事を、ヒロインに証明してもらいました。

あ、補足。
赤壁賦になった赤壁は『文赤壁』であって、赤壁の戦いが起きた『武赤壁』とは別物です。
作者が同名の地名を間違えてそのまま作っちゃったそうです。逸話。

衣食住も何とかなりそうで、長かった序章も次で終わります。
もう少しお付き合い下さいませ。



2007.2.4
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