井戸端
夜の自主トレを終えて、井戸で顔を洗う。
水気を拭おうと懐を探って、潮江文次郎は手拭いを持っていない事に気がついた。
部屋に置いてきてしまったらしい。
「使う?」
頭巾を代わりにするか。
考えた辺りで横から差し出された、誰かの手拭い。
ちらりと目を遣る。
その場に居たのは、新入職員の。
「もしかして、手拭い持ってないんでしょ?」
「…すまん」
一言、礼を言って受け取る。
返されたのは、気の抜けた笑顔。
借りた手拭いで顔を拭きつつ、隣に並んだを観察する。
抱えていた桶を井戸縁に置いて、非常に頼りない動作でつるべを引き上げている。
はっきり言って、不格好だった。
まず腰が入っていない。
つい見かねて、脇から手を出し、つるべを奪って代わりに引き上げてやった。
おお、と短い感嘆の声。
「早いねーありがとう!」
「こんな刻に、何に使うんだ?」
「んー、妹が熱出しちゃったみたいで、その看病」
上がった水を、桶に移し換える。
そういえば、こいつにはくノ一教室に入学した妹がいるんだったか。
思い出した風の噂と、今から聞いたばかりの話題。
文次郎の眉間に皺が寄る。
「あんた、妹に甘過ぎじゃないか?」
「えー、そう?」
「学園の中でまで身内に世話されてる奴なんて、他にはいないぞ」
きょとんとした顔を向けてくるに、言い募る。
学園一忍者してると謳われる、潮江文次郎にしてみれば。
忍者になろうとしている奴が甘やかされて育って、この先忍者が務まるか!
という話なのだ。
諫言、という体を取った、文次郎の叱責に。
「まあ、いいんじゃない?」
どこ吹く風とばかりに、は気の抜けた笑顔を見せた。
「良いわけあるかバカタレ」
「手厳しいなあ。でも、いつまであの子の面倒みてやれるか分かんないし。
しばらくは大目にみてくれると、嬉しいんだけどな」
少しだけ眉が寄り、困った笑顔になる。
入れ替わるように。
文次郎の眉間から皺が消える。
「手拭い貸しとくよ。次会った時にでも返してね」
じゃ、私急いでるから!
ぴっと片手を上げてそれだけ言い残し、水の入った桶を抱えて井戸を離れていく。
ふらふらした足取りの後ろ姿を、見送る形になった文次郎。
の言葉。
微妙な表情の変化から。
溺愛する妹の、兄離れを憂う思いとは違う。
奇妙な切実さがあったように、感じた。
握られた手拭い。
文次郎は、無言でそれを見下ろした。