予感
ぎこちなく動かしていた筆を止め、一息吐く。
見慣れない筆文字に少しでも慣れる為に借りた手習いの本を閉じて、は大きく伸びをした。
もうすっかり夜も更けてしまっている。
燭台の灯を頼りに字の練習をしていたが、これ以上灯していたら夜回り中の会計委員会委員長が乱入してきそうだ。
油代も馬鹿にならない。
寝る準備と身の回りの整頓を軽く済ませ、は燭台の灯を吹き消した。
月明かりが入るとはいえ、小窓から取り入れる程度の光量ではまだまだ暗い。
すぐ横になろうかとも思ったが、何だか目が冴えてしまったので、少し風に当たる事にした。
「さむっ」
戸を開け放ってすぐ吹き込んだ夜風の冷たさに、思わず身震いする。
この間まではもう少し過ごしやすかったのに。
カスミに子守歌を聴かせた時を思い出し、季節の巡りを知る。
袖の中に収めた手で身体を掻き抱きながら、左右の廊下の先を眺めやる。
人の姿はない。
忍たまも、カスミの姿も。
ここしばらく、カスミの「癖」は出ていなかった。
日中は勿論、隙を見つけてはにべったりなのだが。
夜になると同じクラスのくのたま達と女の子らしい話で盛り上がり、とても楽しそうにしている、らしい。
訪ねて来ないカスミを心配して山本シナ先生に問いかけた時の返答だ。
良い傾向だ、と思う。
忍術学園に来た当初はなりを潜めていた「癖」が再発した時は、どうしたものかと頭を抱えたものである。
だが、それもまた落ち着いてきているという事は、正しく「癖」が直りつつあるという事なのだろう。
歳の近いくのたま達に囲まれて、親を失った心の傷を塞ぎつつ証拠だ。
…兄離れされてしまう事自体は、ちょっとだけ寂しい。
「…そろそろ…なのかもなぁ」
戸に背を預け、空に浮く月を見上げる。
満月より少し欠けた、歪な円。
カスミの傍で、この月を何回見た事だろうか。
ほぼ毎日必ず傍にあった温もりが、今はない。
今のカスミは、「兄」がいなくても、もう大丈夫なのかも知れない。
それはつまり、「カスミが『兄』を必要としなくなるまで」と心に決めた期限が迫っているという証。
「兄」がいなくても一人で生きていけるようになったら、自分はもうここには必要ない。
そして恐らく、その時はきっと遠くない。
元の場所に帰る時が近付いているのだ。
「…整理しなきゃ」
部屋の中をちらりと見やる。
忍術学園を訪ねた時、共に持って来た荷物がそこに置いてある。
カスミと出会う前から持っていて、その頃から今まで数える程度しか荷を広げていない。
帰る時が近付いているのなら、中身の整理をしておかなくては。
余計なものを持って帰らないように。
余計なものを置いて行かないように。
今すぐ取りかかる必要はないので、明日明るくなってから行おう。
「……」
目を月に戻す。
帰る事を意識したら、急に月が寂しげな色を帯びたように見えた。
見る者の心によって、月は姿を変えるらしい。
自分は今、忍術学園を去り、本来の場所へ帰る事を寂しく感じている。
カスミだけではない。
こっちに来て関わりを得た全ての人達と、離れるのが辛かった。
避けられない別れだと分かっていても。
「 」
ふと口から零れた微かな旋律。
それはカスミに聞かせていた
別れの歌でもあるそれは、の心をも慰める。
隣の部屋にすら届かない、小さな小さな歌声。
ごく微かな余韻を漂わせ、その音は空中に溶け消えていった。