語学
所用で少しばかり席を外し、戻ってきた所で留守を頼んでいた下級生を帰らせた。
定位置に腰を下ろし、図書委員の仕事を進める為筆を持ち。
墨に筆を浸したその時に、中在家長次は書を繰る微かな物音を聞き留めた。
首を巡らし、本棚の奥の方、長次の位置からは死角になっている辺りから物音はしている。
場所の目処を付けてから立ち上がり、そちらへと足を向けた。
本棚の角から顔を覗かせ、そこに見留めたのは、
「…いたのか」
「ん、お邪魔してますー」
書に目を落としたであった。
長次が席を外している間に訪れていたのだろう。
書の文字を目で追ったまま、ぱらぱらと頁をめくっている。
何を読んでいるのか、その手元を覗き込んですぐ、長次はちょっと眉を顰めた。
「…読めるのか?」
が手にしているのは、洋書であった。
長次の位置から見える頁にも、隙間無く南蛮の文字が並んでいる。
以前小平太から「は字が読めない」という話を聞いていたのだが。
それは誤りであったのだろうか?
「まぁ、みみずがのたくったような筆文字よりは」
「みみず…」
「でも、私の知ってる国の言葉とはちょっと違うみたいだし、
読めるっていっても何となーくニュアンスを感じる位だね」
へらりと気の抜けた笑みで見上げてきながら、開いていた頁を傾けてくる。
この国の言語とは文字も音も異なる言葉。
長次からしてみれば、今見せられている文字の方こそみみずに近いように思えた。
筆文字がのたくるみみずなら、南蛮語はくるくる跳ね回るみみずだ。
「外国の本、思ってたより多くて驚いたよ。さすが忍術学園だね」
「……」
「もうちょっと簡単な内容のがあればもっといいんだけど…どれも何だか小難しくって」
さもありなん、が今見ているのは医学書の類だ。
これを借りに来たのは伊作や新野先生含め、片手で足りる程度しかいない。
内容が専門的すぎて、読む人間がかなり限られてくる代物だった。
ニュアンスで読むというには少し厳しいかも知れない。
長次はの手から本を取り上げると、違う本を選んで渡した。
挿絵がふんだんにちりばめられた、南蛮の子供を対象にした御伽話の本だ。
忍術を学ぶ学校で何故こんな本を扱っているのか首を傾げたくなるが、
南蛮語を学ぶ目的にはうってつけかも知れないと、選んでから思い至った。
これならにも向いているだろう。
「ありがとう、読んでみるね」
パラパラと中身を確認した上でのの返事に頷き、長次は席に戻った。
再び筆を手にし、取りかかり損ねていた書き物に向き合う。
貸出記録のチェックをしていると、文次郎がまた延滞している事が判明した。
後で督促に行かなくては。
無表情に目に留めながら、黙々と仕事をこなしていく。
ある程度時間が経過した所で、部屋の奥から足音がして、長次は顔を上げた。
が棚の向こうから姿を現し、入り口の方へ移動してきた所であった。
戸を背もたれに腰を下ろす姿を見た、そのついでに表へ目をやる。
日が陰ってきていた。
成る程、これでは奥まったあの位置では十分な光源を得られず、細かな字は読みにくいだろう。
少し前までは、長次が作業中であろうとなかろうとお構いなしに膝上を陣取ってきていたのに、
今は離れた所にいるのは、先日の一件も絡んできているのだろうか。
先日の一件、風呂場での件の事だ。
無頓着に見えるにも配慮の心はあるのだと、妙な所で感心してしまう。
沈みゆく陽が赤みを帯び、の姿をゆるやかに染めていくのを見、長次は帳簿を閉じた。
「……ん?」
「…もう閉室だ。続きは部屋で」
音に気付いて顔を上げたへ貸出票を差し出す。
「…ああ、もうそんな時間なんだねぇ」
空の赤さを確かめ独りごちると、膝立ちで距離を詰めてくる。
受け渡された貸出票に必要事項を記入するのを待つ間、改めて書の題名を確認する。
異国の本は、教師陣でさえ全員が読める訳ではない。
その限られた知識を、はどうやって手に入れたのだろうか。
使い慣れないという筆で一生懸命貸出票に書き込むの姿を黙然と眺めながら、
長次はその一点に思考を巡らせた。