【1】
夢から浮上した意識が静けさを聞く。
かすかな物音さえしない静けさに、ポルナレフはそっと目蓋を持ち上げる。
起き抜けで霞む視界に、閉めきられたカーテンを透かす光を捉えた。
ほんのりと弱く柔らかなそれは、夜を明かす朝の光だ。
多くの者が眠りについている時間帯。
一日の活動を始めるには少しばかり早い。
いつの間に眠ってしまったものか、ベッドに横たえた体に力を入れると、強張っていた四肢や背中の筋肉が解れていくのが分かった。
体から眠気を追い出したところでひとつ息をつき、目蓋の上から目を擦る。
「……懐かしい夢を見たもんだな」
指先に少しの湿り気を感じる。
目元を濡らしていた涙の感覚が夢と現をリンクさせ、意識せず呟きがこぼれた。
ポルナレフは思い出す。
あれは、あの夢は過ぎ去った日の記憶だ。
ひとつの終わりであり始まりでもあった、かけがえのない一場面。
あの時交わした言葉は、今なお鮮やかな記憶として自分の中にある。
夢の中でも一言一句過たず、人の気配すら再現する程に。
そのリアルさは、五感が捉える現実世界の静けさとのギャップを意識させ、ポルナレフを夢の淵から引き上げた。
目蓋を閉じ、懐かしい顔ぶれを思い出す。
時折若者のような茶目っ気を見せた、整えられた顎髭の似合う頼れる最年長。
歳に似合わぬ迫力と度胸があったが、年相応にくだらない遊びも好きだった寡黙な学生。
どちらも帽子が良く似合っていた。
二人は親類であるからか、真反対の性質であるように見えて、その実とてもよく似ていた。
それと、もうひとり。
いつかの再会を約し、カイロの空港で肩を組む男三人を遠巻きに見守っていた存在。
過酷な旅にもかかわらず、生きて旅の終わりを見届けた、旅の面子で唯一の女性。
「……」
唇に彼女の名を乗せる。
当時の記憶が夢として蘇ったのは、彼女――の存在が鍵となったからに他ならない。
カイロで別れてすぐ、は音信不通となり行方を眩ませた。
ポルナレフはジョースターらと協力して捜索を開始したが、思うように彼女の足跡を辿れず居住地の特定にも至らない。
の安否が分からない焦燥を抱えたまま、およそ二年の月日が過ぎた。
日々の生活を送る上で、心配は尽きないが彼女のことばかりを考えてもいられず、
ジョースターと懇意にしているスピードワゴン財団から持ち込まれた調査の一環で、ポルナレフはイタリアの一都市、ネアポリスを訪れた。
そして、出会ったのだ。
『私の探し人は、貴方かしら?』
顔を合わせて早々に向けられたのは銃口。
しかしそんなことは問題にすらならない。
『ジャン=ピエール・ポルナレフ』
よく通るアルトの声は、懐かしい音で名を紡ぐ。
どこにいるかも分からなかった、かつての旅の仲間……は。
カイロから遠いイタリアの地で、敵としてポルナレフの前に立ちはだかったのだ。
思わぬ場所、思わぬ形での再会。
後のことは無我夢中で取った行動だ。
彼女の手を掴み、駆け回って追っ手を振り切り、一時のねぐらとしているこの空き家へ辿り着き。
気が付けば眠りへと落ち、との再会をきっかけに、懐かしい夢を見た。
目を開けて、目蓋の裏に描いていた顔ぶれを打ち消す。
先程までとさして変わらない仄明るさの中、ポルナレフは横たわったまま自身の手を顔の前へかざした。
かつて修業をおこなっていた時のマメの痕が未だに残る、厚みのある手のひら。
この手は、あの時、の手を確かに掴んだ。
加減を間違って痛めてしまわないかと心配する程に、自分のものに比べて細く小さな手を、確かに掴んでいた。
「……そりゃあ、逃げるよな」
広げた手を握り締めてから体勢を変えて、部屋の中心へと目を向ける。
朝方の薄明かりに浮かびあがる室内。
埃っぽい床、しんと冷えた空気。
そこに人の気配はなく、ただ自分の呼吸音のみが聞こえてくる。
共にこの場所へ来たはずのの姿はどこにもない。
当然だろう、とポルナレフはひとつ息をつく。
彼女は敵として自分の前に現れた。
こちらのことも覚えていない様子で終始戸惑いと警戒を露わにし、知らぬ内に寝入ってしまうまでそれらが解かれることはなかった。
敵として認識している相手が無防備な姿を晒した時、普通なら、彼女ならどうするか。
考えるまでもなく、連れて来られたこの家から逃げ出し、仲間へ連絡を取るだろう。
追っていた人間がここにいると知らせれば、恐れていた裏切りに対する報復を帳消しにして余りある功績も手に入る。
今姿が見えないのがその証拠だ。
もしかしたら既に、の『今の仲間』が家の周りを包囲しているかも知れない。
そうでなかったとしても、居場所が知れてしまったとしたら、この場所に長く留まってはいられなかった。
「無事だったなら、それでいい」
込み上げた一抹の淋しさをのみこみ、への思いにすり替える。
こちらの胸元ぐらいまでしかない背丈。
見上げてくる涼やかな黒の眼差し。
ポルナレフよりも細く小さい肩と首筋、その後ろで長く艶のある黒髪が揺れる。
人目を避ける為に発現させたスタンドの姿も能力も、二年前に共に旅をした彼女そのもの。
彼女は確かにポルナレフの知るだった。
向こうはこちらを覚えてはいなかったが、本人と分かっただけで十分ではないか。
行方の知れなかった者が無事で生きていたという小さな希望は、じわじわと追い詰められ疲弊していたポルナレフの精神を奮い立たせた。
「……会えて嬉しかったぜ、」
眠りに落ちる前に見た姿が、今生での最後のひとときだったとしても。
彼女が今を幸福に生きているのであれば、それで構わない。
断ち切った未練を音にして吐き出すように、ポルナレフはそっと呟く。
これからも続くであろう果てのない逃亡劇の為、もう動き出さなければ。
ベッドから身を起こすとマットのスプリングが軋む。
その音に紛れるように、玄関のドアが小さく鳴るのを、ポルナレフは聞き逃さなかった。
反射的に息を詰め耳を澄ます。
追っ手か。
ポルナレフは自身のスタンド、『
音を立てないように近付いてきたということは、相手は既に気付かれていることに未だ気付いていない。
機先を制するにはこちらが一手有利だ。
注視する視線の先で、玄関のドアから細く光が差し込んだ。
初めは糸のようだった光は徐々に太り、小さな軋み音を立てながらゆっくりと開いていく。
人ひとりが通れる隙間から滑り込むように人影が入ってきた。
逆光で顔が判別できない相手に、ポルナレフは総身に緊張を走らせる。
音を立てないよう後ろ手にドアを閉めたのを確認する。
不審な動きが見られればすぐに抜き放てるように、チャリオッツの持つレイピアの切っ先を定める。
元々薄暗さの中で目覚めたため、光が締め出されてからの順応は早い。
ドアを閉め室内を振り返った相手がこちらに気付いた。
暗闇に潜むポルナレフを一瞬捉えられなかったのか、じっと目を凝らし。
「……なんだ、もう起きてたの?」
よく通るアルトの声音を、しんとした室内に響かせた。
「……?」
もう会うこともないだろうと思っていた相手。
手に何やら荷物を抱え、平然として現れたに。
ポルナレフは唖然としながら、ようやく名前だけを口にした。