「ひえっ」
慌ただしく乱暴な足取りで、何人もの男が駆け抜けていくのを、少年は地面にうずくまりそれらをやり過ごす。
周囲が静まるのを待って恐る恐る顔を上げると、足音の主たちはどこかの路地に入ったのか、姿は見えなくなっていた。
「ああ、びっくりした……何だったんだあの人達」
安堵の息を吐き、放り投げてしまっていたカバンを手元に引き寄せて立ち上がる。
埃を払う少年の脳裏によみがえるのは、自分がぶつかってしまった男女の姿。
ぶつかったことを謝るこちらを一瞥しただけで何も言わず、二人は怖い顔をして港の方を見ていた。
ただの旅行者や地元のカップルならあんな顔はしないだろう。
「あれが訳アリの男女ってやつだったのかなあ……」
ただならぬ関係を思わせる雰囲気を思い出し、妙な感心を覚えつつ港へ目を向ける。
あの男女が怖い顔をしていた理由や原因と思しきものは、足音と共に去ってしまった後だ。
今見ても何もないとは分かっていたが、記憶の中にある二人の視線についつられて。
振り返った少年の横を、港の方向から走ってきた一人の男が通り過ぎた。
先の男達に比べてその動きは静かで、走ってくる気配に気付かなかった。
少年は体を捻って、通り過ぎた男の背を振り返る。
細身の長身に、短く刈り込んだ長髪。
慌ただしい様子ではなかったが、とある路地に迷いなく入っていったことをみると、先の男女を追う一人に間違いなさそうだ。
「あの人……」
少年は呟く。
あの姿に、あの背中に、どこか見覚えがある気がした。
どこで見かけたのだったか。
思い出すよりも早く、
「とおるるるるるるるる」
【5】
街を駆け抜けた末に、いつの間にか高台へと辿り着いていた。
街路を抜けた目の前を横切る広い道、その向こうは断崖となっているようで、開けた視界には鈍色の空ばかりが見える。
「こっちだ」
走り通しで上がった息のまま、は腕を引かれて道を渡る。
断崖に近づくにつれ視野が下がり、眼下に広がる海が見えた。
暗い色をした水面、その上を滑るように動くいくつかの小さな船影。
あの内のどれかが、自分達が乗る予定だったコルシカ島行きのフェリーなのだろう。
ネアポリスの街を追っ手から逃げ回っている内に、出航時間はとうに過ぎていた。
が海へ目を向けている間も、ポルナレフは足を止めない。
その進行方向には、風化が進んだ石造りの三本の柱が建っていた。
かつての神殿か何かと思われる、イタリアではそれほど珍しくもない遺跡の一部だ。
ポルナレフはそこを目指しているらしかった。
連れられて、石柱の裏側へ回り込む。
断崖の際に建てられていたが、裏には人が入っても十分なスペースがあった。
そこへを押しやって、ポルナレフはようやく掴んでいた手を離す。
「今の内に体を休めておくんだ。見つかる前に、また移動しなくちゃあいけないからな」
石柱に背中を張りつかせて来た方向を警戒しながら、体を休めろとポルナレフは言う。
促されて、は一度周囲の音に耳を傾けた。
後を追いかけて来ていた足音と怒号が今は聞こえない。
路地や人ごみを駆け抜け、時には迎え撃ち。
結果、一時的ではあるが追っ手を振り切れたようだ。
そうと分かった途端、は緊張の糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。
地面に両手をついて倒れ込みそうになる体を辛うじて支え、深く項垂れた頭を起こせないまま荒い呼吸を繰り返す。
喉がからからに乾き、酸素が足りないと体が悲鳴を上げていた。
萎えた足が再び立ち上がれるまでに回復するにはしばらくかかりそうだ。
昨日よりも少しだけ長い逃避行の果てがこの体たらく。
自分に体力がないとは決して思わない。
有事に備えて体作りは日々おこなってきていた。
足りなかったのはスタミナではなく、覚悟だ。
パッショーネに追われるとはどういうことか、知識はあれど我がこととして考えられていなかった。
これでも今の生活に身を置くようになった初めの頃は気を張って必死に生きていたのに、
いつしかそういった危機感がすっかりと薄れてしまっていた。
何故、と考えてみればすぐに思い至る。
常にドゥイリオがそばにいて、不安に苛まれる自分を支えてくれたからだ。
彼に依存していたのだと、全てが敵に回ってようやく思い知る。
二度までも背中を向けてしまった彼が、今後自分の隣に立つことはないだろう。
その確信めいた予感が心に重くのしかかる。
精神の疲労がスタミナにまで影響を及ぼし、なかなか息が整わないのそばへ、
「……大丈夫か?」
気遣わしげな声と共に、ポルナレフが膝をついた。
「無理させてすまない。だがもう少し辛抱してくれ。
イタリアを脱出してジョースターさん達と連絡が取れるまで、どうしたって無理は続くんだ」
背中に添えられた手にゆっくりとさすられながら、俯けた顔を僅かに上げる。
ポルナレフは少し息が弾んでいたが、こちらに比べれば呼吸の乱れはないに等しい。
動けないを労わりつつ、周囲を警戒する余裕すら見せている。
疲労の度合いが違うのも当然だ。
男女の体力差か、ひとりで追っ手をかわし続けた経験の差か。
どちらにせよ、自分よりも彼の方が体力的にも精神的にも上回っている。
そう頭では理解できたが、苦しんでいる傍らで見せられる余裕に、ほんの少し苛立ちがあった。
疲労と乱れた精神状態が、冷静な思考を妨げるのだ。
「……落ち着くまでの間、少し話をしようか。朝、君のことを聞かせてもらったしな」
口を開けば苛立ちに任せた暴言が飛び出しそうで、返事が出来ないを知ってか知らずか、ポルナレフの方から話題を変える。
「そうだな……例えばパッショーネに追われる理由。おれが何をしたか、詳しくは知らないんだろ?」
尋ねられて、は小さく頷く。
名前と身体的特徴、『組織』を知り過ぎたという漠然とした理由。
ポルナレフを捜せと通達が来た時に与えられた情報はこれだけだ。
人を捜すのに最低限必要な情報は揃っていたので、任務についた当初は特に疑問も抱かなかった。
今後自分も共に追われるのであれば、きちんと理由を聞いておきたいところではある。
相変わらず口は閉ざしたまま、話を聞かせてくれと目で続きを促す。
の視線を受けて、ポルナレフは背中をさする手を止めずに軽く肩を竦め、さらりと告げた。
「簡単だ。おれはパッショーネのボスの正体を突き止めた」
そうか。
ボスの。
さらりと受け流しかけて、理解が至るまでに一拍の間。
乱れた呼吸さえ止まり固まったところを、「お、落ち着いたか?」とでも言うような顔で覗き込むポルナレフへ、
「ば、馬鹿なの!?」
は、今出せる限りの声量で叫んでいた。
「自分がなんてことをしたか分かってる!?捕まったらただ殺されるだけじゃすまないのよ!?
私まで巻き込んで……私は何も知らないのに!」
ボスの正体を探ってはならない。
それはパッショーネに身を置く者にとって、触れてはならない暗黙の掟だった。
ちょっとした好奇心から探る素振りを見せようものなら、語ることすら憚られるような手段で「粛清」される。
ドゥイリオに初めてその話を聞かされた時、は早々にボスに対する興味を捨て去った。
パッショーネにあって生きていく上では、自ら死を選ぶような好奇心は必要ない。
愚か者の行為だとさえ思っていた。
その「愚か者」が、今目の前にいるのだと知った驚きたるや。
馬鹿の一言で済ませられたのが不思議なくらいだ。
「信じられない……なんでそんな恐ろしいこと……!」
呼吸が整わず酸欠気味だったこともあってくらくらとする頭を抱える。
恐怖がひたひたと足音をさせて近付いてくるような錯覚を覚えた。
いわば最大の禁忌に手を出した男と行動を共にする自分を、組織は総力を挙げて捕えにかかるだろう。
それを相手にたった二人で逃げ切れるのか。
生きるために何としても逃げ切る決意が、みるみる不安と絶望に塗り潰されていく。
「……恐ろしい、そう思うか?」
背中をさすっていたポルナレフの手が離れた。
こちらの噛み付くような物言いに対して、問いかける声は不思議と穏やかで。
「だとしたら、おれは既に君を守れていなかった。そういうことになるな」
「……守る?」
上げた視線に、青の瞳が絡む。
小さく頷きながら、
「何故、と訊かれたら、理由は色々あるが……一番は、守りたかったんだ」
答えるポルナレフが、の手を取った。
走り通しだったこともあってか、包み込む手は温かく、反対に自分の指先が冷えていることに気付かされる。
じわりと伝わる熱に、恐怖し取り乱していた胸の内が静かに宥められていく。
人の温もりとは、心を和らげるのにこれほどの効果があるものなのか。
肩の力が抜けるような感覚に、は小さく息を吐く。
唐突に、今朝のことが脳裏に思い出された。
何処へ行っていたのかと問うポルナレフの、不信と警戒からくる緊張のせいで冷えていた手へ、は自然と触れていた。
互いの立場は逆だが、あの時と状況は似ている。
「……おれは、」
言葉を切るポルナレフ。
その顔から逸らせずにいる視界の中、動くものがあった。
は意識を引き寄せられた。
ポルナレフの背後、石柱の陰。
音もなく姿を現すもの。
ひたと眼差しをこちらに向け、手にした銃を構え照準を合わせる一連の動き。
ポルナレフは背中を向けている為に気付いていない。
は目を見張ると、声を上げるより先に、ポルナレフの首に素早く腕を絡め。
抱き寄せる以上の力でもって、その場で思い切り仰け反った。