「呆気に取られた顔はなかなか見ものでしたね、幸村殿」


 武田軍の一員として働く事を決心し、それを信玄本人へと伝えに行く道すがら。
の足取りは心なしか軽く、表情にもどこか清々しさを感じる。

その後をついていく形のの幸村の表情といえば、何とも複雑な感情で充ち満ちていた。










   鴻飛天翔 こうひてんしょう  第十二話










「……幸村殿、先程から押し黙っておられるがどうなされた?私の行動が気に障ってしまっただろうか?」


 軽かった足取りを止め振り返ったに何と答えたものかと、少し言葉に困ってしまう。
黙っていたのはが何かしたからではない。
何と声をかけていいものか分からなかっただけだ。

広場で自分と、そして兵士との間で交わされたやりとり。
それを思い返すと、胸の内が妙にざわめいてしまい落ち着かない。

これも精進が足りないせいであろうか。
叱って下されお館様。


「…殿は、平気なのか?」
「何が?」
「あ…ありもしない噂を囁かれ、好奇の目で見られる事が」


口にするだけで、気恥ずかしさから頬に熱が宿る。
を見ている自分がいたたまれなくなって、視線を地面へと落とした。

先の夜襲において目覚ましい活躍を見せた外部の者が今武田にいるという噂の裏で。
は腕ではなく器量を買われ、信玄の側仕えとして薦められた、という噂も流れていた。
幸村としては信じられない事に、武田の兵はに対しそういう下世話な印象を抱いたのだ。
価値観など人それぞれであろうが、自分がもしそんな噂をされていたら確実に卒倒している。

そう思っているからこそ、のこの何でもないような身の振り方を理解しかねた。

が何か言うのを、地面を凝視したまま待っていたが、しばらくしても声が耳に届いてこない。
気になって、おそるおそるといった感じで目を上げてみた。
は首を傾げていた。


「平気なように見えました?」
「……違ったのでござるか?」
「平気な訳ないでしょう。こういうのは人が噂されてるからこそ楽しいんだと、的にされてみて初めて分かりましたよ」


言っていて思い出して腹が立ってきたのか、話している内にの顔が段々と不機嫌になってきた。

幸村は、何故だか目の覚めるような思いがした。
今まで自分が見た事のある彼の顔は、戦場での引き締まった顔と怪我の痛みに歪む苦悶の顔。
こんな風に感情を表に出した表情を見るのは初めてだ。

はこんなにも人間味のある人物だったのか。


「随分と怒っておられるようだな…先程は平然としておられたから実はまこと…いやいや」


不機嫌な表情の端から険呑な眼差しを向けられて、うっかり口を滑らせかけた事に気付いた。
咳払い一つして誤魔化すと、顔の火照りが増した気がした。


「勿論、あの場で怒っても良かったんですけど。怒った所で、本当に小姓なのに隠そうとしてるとか、
どうせそういう方向にいっちゃうものでしょう、噂なんて」
「そういうもので…あろうか?」
「さぁ…私はそう思ったので、ああいう態度を取った訳ですが」


はそう言って、体の向きを元に戻しゆっくりと足を運び出した。
視線が逸らされれば顔の火照りを気にしてそわそわとする必要もない。
一つ息を吐いて、の後に続く。

また口が開かれた。


「でも噂されっぱなしっていうのも面白く無いじゃないですか。だから、彼らに見せつけてやろうと思ったんですよ」
「見せつけるとは…何を?」
「私が腕を買われて武田軍に推されたのだという事を。戦場に出て、彼らの目の前で戦ってやるんです」


斜め後ろをついて行く幸村を肩越しに振り返り、小さく笑う。
そんなおどけたような仕草とは裏腹に、言葉は自信に溢れている。
その姿を見て、初めてまみえた時の様子が脳裏に蘇ってくる。


「……格好良いでござるな、殿」
「あはは、そうですか?幸村殿に言われると嬉しいな」


血塗れの刀を携えて、屍山の中に佇み。
血の河のただ中にありながらなお血に染まらぬ白を纏っていた姿。
立ち姿の悠然とした様に敵将と見間違え、走り向かえば応えるように距離を縮めてきた。
自分よりも小さな体躯なのに大きく感じる存在感に、密かに心踊ったものだ。

この相手は強い。
五感の外で感じた印象は、武士としての己の血を騒がせた。


その時のような雰囲気を纏わせながらの笑顔は、幸村の視線を吸い寄せるように捕らえる。
釘付けになった視界に映るの姿に、彼を見ている自分の事を加えて考えてみれば。

兵士達が立てていた噂の事も、何となく理解してしまえるような気分になるから、困ったものだ。


殿は…もし万が一、お館様に…め、召されるような事があったら…」


やはり、嫌であろうか。

見とれていた自分の口から、するりと出て来た言葉が信じられなくて。
「召される」という単語に戸惑いながらも全部口にしきってしまった後に、ごまかすように口元を隠してみた。
きょとんとしたの視線が痛い。

何故こんな事を口走ってしまったのかと考えてみて。
やはり、兵士達の噂したくなる気持ちを理解したような気になったのが原因だという考えに行き着く。

殿に対してだけでなく、お館様さえ貶めるような不埒な考えを持つなど、鍛錬の足りない証拠!
うおおお叱って下されお館様ぁぁぁ!!!

という内心の叫びは何とか押さえ込む。
とりあえずは口が滑ってしまった事を謝ろうと、口元から手を離すより一瞬早く。
ふと目を離したが考え込むような素振りで、顎に手を当て小さく唸ってみせた。

呻き声から間とも呼べぬ間の後、ようやく言葉らしい言葉が紡がれる。


「……そういう事訊かれるとは思わなかった…」
「う、いや!答えにくいのなら答えずとも良いのだ!つい口が滑って出てしまったものゆえ…!」


随分と真剣に悩んでいるような顔でそんな事を呟くものだから、少し慌ててしまった。
そもそも訊くつもりなどなかった事なのだ。
そんなものへの返答に悩んでしまわれたのでは、こちらとしても困ってしまう。

考える為に脇へ逸らされていたの視線が戻ってきた所で、「すまぬ」と小さく謝った。
先日の怪我の件もあり、彼に対して必要以上に過敏になっている気がするが、仕方がない事だろう。

「幸村殿、子犬のようですね」と、笑み混じりの声がした。


「そんなに謝らなくたって良いでしょう。私はそんな顔をされる程気にしちゃいませんから」
「しかしっ!平気ではないのでござろう?」
「それはそれ、これはこれですよ。彼らも幸村殿のように、最初から正面切って訊いてくれればいいのに」


からっと爽やかに笑うその顔には、心底面白がっている内心が見て取れるようだ。
そんな笑顔を見せられて、誰が更に謝る事など出来ようか。

もうこの話は打ち切りだとでも言わんばかりに、有無を言わさぬ動きでは再び進行方向へと向き直った。
そして足を進ませようとした所で、ぽつり。


「その時になってみないと分からないけど…そうなったら私は、側女とでも呼ばれるようになるのかな?」
「……え?」
「いえ、武家の慣わしなど話に聞く程度なのでよく分かりませんけどね。側女であってます?」


独り言めいてはいたものの、その声は確かに幸村へと聞かせる為のもの。
そして幸村は、その声を聞き逃さなかった。

に続き歩みを進めようとしていた足が、縫い止められたようにその場で動かなくなる。


「…幸村殿?」


問いかけに答えがない事を訝しく思ったが振り返る。
自分は何度、お館様のもとへ向かおうとする殿を立ち止まらせれば気が済むのか。
そんな思いがなくもなかったが、残念ながらそこに反省の念を抱ける余裕など今はない。

耳に届いた言葉が、何やら聞き捨てならぬものであったから。


「…一つ確認したい」
「はい」
「側女とは、主の側近くに仕える女性の事を言うのだが…」
「……ええ、そのつもりで言ったのですが。何か間違ってましたか?」


さらりと、肯定された。
訝しげな表情に違和感はない。
こちらを謀ろうとしているのではないようだ。
そもそも幸村を今騙す利点が思いつかない。

「まさか」の思いが確実に強くなっているのを感じながら。
幸村は最後の確認に出た。


殿は……おなご、でござるか?」




「はい」




白くなる思考の向こう、様々な考えが物凄い速さで去来した。

年はそう変わらない筈なのに、自分よりも随分と背が低いし腕も細い事や、高くも低くもない声。
「少年」の域を抜けきっていないのだと思い込んでいたから、「彼」を「男」だと信じて疑わずにいたが。

今明かされる衝撃の真実。
これまた変わらぬ調子でさらりと肯定された事が小憎らしい。


は、女性であった。


言われてみれば、肩の線など女性らしい丸みを帯びているように見えるから不思議なものだ。

刹那の衝撃は大きかったものの、それを受け入れてしまえば後はどうという事はない。
刀を握って戦うというのはあまり聞いた事はないが、「戦女いくさめ」もいなくはないのだから。
が武田軍の者として働く事にもさしたる抵抗はない。
寧ろ戦力として期待できるのだから、諸手を挙げて歓迎したい所なのだが。

幸村の脳裏をちらと掠め、意識された途端に存在感を増した、ある一つの事柄。




それに思い至った幸村は、全身から血の気が引く思いがし。




「……もっ、申し訳ござらんっっっ!!!」


深く考えるよりも先に、額を地面にこすりつけていた。


「え、ちょ…幸村殿?」
殿がおなごだとは露知らずっ!あろう事か拙者は……殿を傷物に!!」
「傷物ってっっ!!」



男ならともかく、女性の肌に傷を残すような所業など言語道断であると常々思っているのに。
先日の夜襲で槍を向け傷つけてしまったが実は女性であったなど。
知らずにやった事とはいえ、この事実は幸村にとって大きな衝撃以外の何物でもなかった。

それに気が付いてしまったならば、本人に謝った所で解決する問題ではない。
殿本人が許すと言っても自分の気が済まない。
この後悔の念を晴らすにはどうしたら良いか。
幸村は眼前の土を凝視しながら考えた。

の戸惑ったような慌てたような声が聞こえる。
目まぐるしく働く思考が猛省の方法を導き出すまでに、そう時間はかからなかった。


殿がこれから武田の同志となるのなら、拙者はこの過ちを償わねば気が済みませぬ!!」
「え、過ちって?どれ?」


戸惑うを置いて。


「うおおおお館様ぁぁぁっっ!!!」


元々そこへ向かっていたよりも早く、信玄のいる所へと向かい。




己の罪状を白状。


武田信玄の熱い拳を受ける事で、自分への仕置きとするのであった。


取り残されたの事などすっかり頭から抜け落ちていた。















 ちなみに幸村の懺悔の声は意外に大きく、武田の屋敷に響き渡り。
、幸村に傷物にされる」などという噂話がまことしやかに囁かれるようになり。
元々密やかに流されていた信玄との噂もあって。

が妖しい存在であるという印象は、武田の兵から長らく払拭されなかったという。




















ずっと幸村のターン。佐助夢なのに佐助一切出てこないよ!
今回はヒロインがお館様との関係を噂されたりしながら、幸村に女性だって事が発覚しました。
色気を出そうと思って出なかったんだぜ…

ヒロイン、幸村に傷物にされる疑惑。幸村ったら破廉恥っ!(むしろ戯が破廉恥)



2006.3.26 大幅加筆修正
2006.3.26
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