鴻飛天翔 こうひてんしょう 第十三話
次の合戦相手国の情報を調べ上げ、佐助は甲斐へと帰ってきた。
何気なく目をやれば、映るのはいつもとさして変わらない見慣れた景色ばかりだが。
この甲斐に、いつもと違う存在がいる事を思い出すと、少しだけ感じ方も変わってくる。
幸村や信玄に思いを馳せた後、次に浮かんでくるのは、の事。
彼女の怪我はどれだけ良くなっただろうか。
そもそも、大人しく武田の屋敷に留まってくれているのだろうか。
楽しみでもあり少し心配でもある、そんな気持ちを抱えている。
への関心が、自分でも意外な程深い事に驚きながら、それでも足はまず信玄の元へと向かっている。
今はの事よりも、まずは調べ上げた敵方の情報を信玄に届ける方が先決だ。
胸の片隅にその存在を留め置きながらも、真田隊の長としての自分が冷静に判断を下す。
忍としての意識は忘れずに、それでも心なしかのんびりとした足取りで、佐助は信玄の元へと向かった。
その道中。
ふと感じる視線に気を留め、足を止めた。
静かに周囲を探ってみると、こちらを窺っている視線が四方八方から感じられた。
ちらと感じた視線の一つに目を向ければ、やはりそこに人影。
いたのは敵…ではなく、何故か味方の武田軍兵士だった。
目が合うと彼はばつの悪そうな顔をして、そそくさと立ち去って行った。
ぐるりと周囲を見回すと、同じように佐助を見る武田の兵がそこかしこにいた。
中には女中もいたりしたが、誰も彼も敵意を向けてきている訳ではない。
ただ興味深げに、感じたままに言わせて貰えば好奇の目で、こちらを見てくるのだ。
気にしないようにしていても如何せん数が多く、歩いているとどうしても視界や意識に引っかかってくる。
一体自分が何をしただろうと首を傾げても、思い当たる事など勿論無い。
信玄の部屋に至るまで、幾つもの視線は途切れる事無く佐助を追った。
己とについての噂を知ったのは、己が主君の幸村を交えての報告を終えてからだった。
信玄が世間話でもするような何気ない口調で言った事に、流石の佐助も呆気に取られる。
「…………………………誰がんなこと言い出したんすか」
「うむ、それが本人がそう言っておるという話でな」
失語症から立ち直ってようよう噂の出所を問うてみればその返答。
佐助は再び言葉を失った。
噂の出所はなどでは、ない。
出所の話すら噂だろう。
自分との間には何の関係もないし、もし仮に万が一関係があったとしても、その事を自ら話すとは思えない。
ましてやその話の内容が、要約すれば衆道疑惑であるなら、尚更が出所などあり得なかった。
ここに来るまでの視線の群れはその噂のせいだったのだと気付いて、佐助はがくりと項垂れた。
あろう事か衆道だと疑われるなど、情けない事甚だしい。
どうせ噂になるのならもっとましなものもあるだろうに。
ちらりとそんな事が頭を過ぎる佐助はこの時、が女であるという認知度が限りなく低いという事を見落としていた。
明らかに気落ちしている佐助を、目を細めながら見やり、信玄が口を開く。
「して、佐助。お前はとはどうなのだ?」
「………何の関係もありませんよ」
旦那まで疑ってるんすかぁ、と情けない声を出す佐助に、つい信玄は堪えきれず笑ってしまった。
盛大で豪快な笑い声に堪りかねて笑わないでくれと佐助が言えば、すぐに謝罪の言葉が返される。
しかし謝っている間にも笑いは収まりきっていない。
「いや……すまぬ。なに、あの娘とならその仲を祝ってやろうとも思うたのだがな」
「…………………娘って、大将知ってたんすか?」
「何を言う。先日あれ程『彼女』と連呼していたのは他でもない佐助であろう?」
「………あぁ」
言われて記憶を辿ってみれば、確かにそれらしい事を口にしていた覚えはある。
無意識の内だったようだが………どうやら信玄の前以外では、を女として呼んだ事は無さそうだ。
自分との関係を取り上げている噂が「衆道」で広まっているのが良い証拠である。
「真田の旦那は知ってた?」
「拙者は………直接殿に教えて貰った」
信玄の傍にいた幸村に話を振ってみれば、ぎこちなく視線を逸らしながらそのような答えが返ってくる。
教えて貰ったというその時、幸村と彼女の間に何かがあったのだろうか。
幸村の大音声での謝罪が発端になった『、傷物にされる』の噂は、まだ佐助の耳には入っていない。
それにしても
幸村でさえ、本人に教えて貰わなければ、女である事に気が付かなかっただろう。
誰も彼もが何の疑問も持たず、を男だと思い込んでいる。
の男前度に思いを馳せ、遠い目をする佐助。
「まぁ、火のない所に煙は立たぬ………前田家のように夫婦で戦に出る例もあるからのう」
「……?何でそこで前田家が出てくるんです」
「あのような姿をしていても、根は気立ての良い娘じゃ。向こうもお前の事を悪くは思っていないだろう」
今は関係は無くとも、思う物があるなら押してみるのも良いという事だ。
信玄はそう言って、目を細めて静かに笑った。
その表情を、佐助はただ見つめる。
が武田軍に入ると聞いたのは、それからほんの少し後の話。
「様は、佐助様の事をどうお思いですか?」
不意に投げかけられた問いに、は口に含んでいた茶を危うく吹き出しそうになった。
昼下がりの縁側でのことである。
先日の訓練以来手合わせを申し込んでくる者がいなくなってしまい、暇を持て余していた所に千代から茶の誘いがあった。
千代は何だかんだと身の回りの世話をやいてくれ、結構気が合う為よくこうして話をしている。
度々頬に朱が散るのが気にはなれど、赤面症なのだろうと認識している。
屋敷にいる数少ない女性の中で一番の友人だと思っていた。
その人物からのこの問いである。
茶に濡れてしまった口の周りを慌てて袖で拭いつつ、は千代を凝視する。
「そ………その質問は、ひょっとして例の噂に基づいてるのか?」
「だって様に関わる噂ですもの!気になりますわ」
身を乗り出すようにする千代の表情は真剣そのものだ。
は少し困って、頬を掻きながら晴れ渡った空を見上げた。
何とも返事に窮する質問だった。
噂の真偽を確かめる問いであったなら、意味深長に笑って見せたり、相手が千代だけに真実を話そうという気にもなった筈だ。
だが、問われたのは、が佐助をどう思っているか。
訊かれて初めて、自分が佐助をどう思っているかについて考えを巡らせる。
意外な盲点だった。
確信的な愉快犯で、噂を聞いた者に混乱をもたらしておいて、今更相手への感情の向き方を考えるとは。
「……嫌いでは………ないな。良い奴だとは思うし」
「そうですか………………勿論ご友人として、ですよね?」
「……………………………………うん」
多分、と添えかけて、咄嗟に言葉を飲み込む。
奇妙に息を吸ったまま止まってしまった声の不自然さを取り繕うように、は手つかずだった茶菓子の団子に手を伸ばす。
一玉を口に入れ咀嚼する間に、横で千代の息をつくのが聞こえた。
茶が冷めてしまったので入れ直してくる、と言い置いて、千代は急須を持って行ってしまう。
その姿を途中まで目で追って、大分冷めてしまった茶の入った湯飲みを口に運ぶ。
一人になって、自分の心にきちんと向き合って考えられるようになった。
自分が佐助をどう思っているのか。
友人だと思っていたが、改めて考えてみると少し違う気もする。
ふと、去る間際に聞こえた千代の吐息に意識が行った。
ひょっとすると、彼女は佐助を慕っているのではないか。
だから噂の一端であるに彼への思いを訊き、その事実無根を知って安堵したのでは。
そうだとしたら。
急に胸に生じたわだかまりに、は戸惑った。
友人に好きな相手が出来たと知ったなら喜ぶべき事である筈なのに、何故か素直に喜べない。
どうしてこんな風に思うのかと考えれば考える程、思考はますます深みに嵌っていくようだ。
「私は………どう思ってるんだ………………?」
思考の渦から抜け出すように呟く。
誰も聞く者のいないこの場所で、吐き出された言葉は虚空に溶け消える。
………筈であった。
「何をどう思ってるって?」
突如生じた両肩の重みと共に耳元で吐息混じりの声がし。
すっかり油断していたは声にならぬ絶叫をあげた。
佐助、衆道疑惑を聞くの巻。がっくりしてる佐助が書きたかったのでした。
そしてオリジナルキャラ千代さん出張りまくり。
女中さんに黄色い声を上げられるヒロイン設定を生かす為のオプションです。
連載ではこの後もう一回位出てきて終了ですが、連載終わった暁には再び出張ってくるかも。短編とかで。
信玄公は豪快に笑って祝ってくれそうです。
幸村も祝ってはくれるんだろうけどやっぱり一度は破廉恥とか言うんだろうな。
ようやくヒロイン→佐助に向けて始動です。同時に物語も後半へ。
ただ、まだまだ時間がかかりそうですが。
戯
2006.3.27
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