鴻飛天翔 こうひてんしょう 第十五話
小走りだった歩調を緩め、やがて止まる。
俯く顔にもう朱は差しておらず、ただ足下の地面に視線を固定させている。
目と地面、その間に手を差し出せば、映り込むのは両の手のひら。
「……こんなに小さかったのか………」
自分を抱き込んだ佐助の腕が、どれだけ逞しく大きかったかを実感して。
比べれば比べる程突きつけられる体躯の差に、は軽く溜息を吐いた。
いかに態度も言動もそれらしくなかろうと、自分は女なのだと自覚する。
そして自覚することが決して嫌ではない自分がいる事に気付いた。
「どう思ってる………?」
誰もいないそこで、一人先程と同じ質問を自身に対し投げかける。
抱きしめられ、相手が佐助と知るや俄に強くなった鼓動。
思いもよらず紅潮する頬に、動揺していた自身が信じられなかった。
そうして佐助の腕から逃げ出して初めて、まるで眼中になかった己の心の片鱗に触れる。
触れるといっても、指先がほんの少し掠めた程度で、全体の形を把握するまでには至らない。
けれど、それで十分だった。
少しでも触れたことで、漠然とした印象しか答えられなかった問いに、はっきりとした形の答えがあるのだと気付けたから。
その答えにまだ確信は持てないが、見つけた途端、動揺していた心が静まっていくのを感じた。
「私は……佐助を…………」
その時、鳥が鳴いた。
がらがらとしているのに、ひどく良く伸びる聞き慣れた鳴き声。
鴉。
その認識が生じるや、の身が強張った。
俯き、手を見つめた姿勢はそのままに、目が大きく見開かれていく。
まるで忌まわしい物と出遭ったかのように。
の前方。
屋敷の屋根瓦の上に、一羽の鴉が留まっている。
黒々とした目を、ぎこちなく顔を上げたに縫い止め、微動だにせずそこにいる。
ちらとの目に怯臆の色がよぎった。
「お前は…………」
譫言のように喘ぐように、ようやくそれだけを絞り出す。
脳裏を幾つもの像が去来し、一時の腕を震わせる。
これは世の理そのものでしょう?
それが楽しいという感情なのです
不意に鴉が羽を広げ、瓦を蹴った。
屋根から飛び立ったかと思うと、地面すれすれまで滑空した後、弧を描いて上昇し、の顔のすぐ横で羽音を響かせて碧空へと飛び去っていく。
は凝立したまま震える腕をぎこちなく持ち上げ、全ての音を遮断するように己の耳に当てた。
羽撃きの音がいつまでも反響している。
見開かれた目も硬直した体もそのままに、は、ただ無言で長いことその場に佇み続けた。
佐助が任務でいない間、薬布貼りは一人で四苦八苦しながら何とかやっていたのだという。
お陰で貼りにくい場所にも慣れ、もう佐助の手伝いはいらないらしい。
薬布を貼ってやろうとの部屋を訪れた佐助は、先制して言われてしまったので、訪れた意味を失ってしまっていた。
手伝いはいらないのなら、もうここにいる必要もない。
けれど折角訪れてすぐ帰る気にはなれず、佐助はそのまま部屋に上がり込んだ。
聞く所によればおよそ一ヶ月前、は武田に仕えることを決めた。
客から部下になったことでこの部屋は正式にに与えられたが、一ヶ月住んでいる割には物がない。
必要最低限の物だけ揃えられた、娘が住んでいるにしてはひどく殺風景な部屋である。
もう少し小間物などがあっても良いものを、そう思いながら部屋からに視線を移す。
既に用意された床を境に佐助と反対側で、は洗われた着物を丁寧に畳んでいる。
少し下を向いた顔に、紐を解いた髪がかかって影を作っている様子に、気取られぬよう佐助は密かに苦笑した。
薄ぼんやりとした明かりのみが部屋を照らし、一組だけの布団がある空間に男女二人。
聞けば大抵の者がそこに含まれる意味に気付くであろうに、はその状況をまるで意に介さず、平然と着物を畳んでいる。
そういう神経の持ち主なのだ。
或いは状況に隠された意味に気が付いていないのか。
佐助は内心の思いを問うのはやめた。
小間物など興味がない、無くても暮らせると一刀両断されそうだったからだ。
だから代わりに別の事を口にする。
「ねぇ、。『鴻飛幽冥』って知ってる?」
「……?何だそれ?」
着物からこちらに向けられた顔には、まるで分からないと言いたげな表情が浮かんでいる。
今の手元にある着物。
それを見ている内に、今の問いを思いついたのだ。
袂が長く、先の方が黒く染め抜かれた独特の意匠。
「いや、知らないならそれで良いんだけどさ」
「人なのか?」
「あぁ、合戦場に現れるっつー滅法強い武士なんだと」
戦場を鴻が飛ぶが如き姿で駆け抜け、兵を黄泉路………幽冥へと送る。
強さへの畏怖を込めて贈られた呼び名。
その名は目の前にいる娘に贈られたものだろうと、佐助は半ば確信していた。
先の対強襲軍戦で刀を振るう彼女の姿を見て、うっすらと感づいたのだ。
刀を振るい、走る度に風を孕んで広がる、「鳥」のような袖。
『鴻飛幽冥』に行き会った者は、恐らくその姿を見て命名したに違いない。
対して、贈られた本人であろうは、顎に手をあてながら首を傾げている。
「そんな話、聞いたこともないな……」
「直接相対して生きて帰った奴もぼぼ皆無らしいし、噂が広まりにくいのかもな」
「噂を聞いたって信じられない私が良い証拠だな。信憑性が薄すぎるよ、それ」
「そう?俺は信じてるけど」
「本当に?」
疑わしそうな目をして微笑するを、不自然にならぬ程度に見つめる。
己の内にある漠然とした確信を彼女に話す気は更々なかった。
言った所で信じないだろうし、信じても何か変わる訳ではないからだ。
そして胸の内にある静かな想いも同様に、まだ告げる気は無い。
の心はまだこちらには向いていない。
その状況下で告げるより、こちらに気持ちを向けさせる事の方が、今は大切である。
今ここにこうしていることの事実を噛み締めながら、佐助はゆっくりと腰をあげる。
「戻るのか?」
「んん、さすがに今日はゆっくり休みたいからね」
「そうか……お疲れ、佐助」
お休み、という声が、出て行こうとする背にかけられる。
その声は耳に心地よく、不思議と優しげな印象に満ちていた。
男声とは違う、低めではあるがどこか女性的に丸みを帯びた声。
中性的な中に「女性」を見つけられるのも、性別を知っているが故だろう。
意識する機会は極端に少ないけれど、それでも確かには娘だった。
娘。
そこに思考が至ると同時に、佐助の内にある一つの思いが閃いていた。
敷居を跨ぐ直前に足を止め振り返る。
「なぁ、明日町に行かない?」
「町へ?」
「見た感じ、こっち来てから一度も町行ってないだろ」
部屋に物が少ない所から当たりを付け言えば、こくんとが頷く。
「小間物屋とか色々あるし、飽きないと思うんだけど?」
「……必要ないよ。私の何処を小間物で飾るんだ?」
「……ま、言うと思ったけどね」
先程想像した通りの反応を返してくるので、つい苦笑する。
そのまま佐助は続けた。
「明日一日、旦那が暇をくれてね。ゆっくりしろって言われたけどすることがないし」
「それと私と何の関係がある?」
「町にでも行こうかと思って。男一人じゃ寂しいから、付き合ってくれないかって誘ってるんだけどな?」
町にでも行こうかと思っていたのは事実である。
を誘うという選択肢が出てきたのはたった今だが。
にっと笑って訊ねてみれば、は驚いたように目を丸くする。
どうだろうか、そう思い、表情の変化を観察する。
瞠目したまましばらく考えていたようだが、やがて表情が緩み、白皙の面に微笑が浮かぶ。
「しょうがないな………」
困ったように眉尻を下げ、発した言葉通りの表情をしながら、それでも。
は少し、嬉しそうに見えた。
ヒロイン、自分の気持ちに気付きかけます。
途中で鴉という邪魔者が入りますが。
その日の夜にはもう平静を取り戻しているけど、何故ヒロインはこんなにも動揺したのか。
ちなみに鴉は決して佐助の二段ジャンプで出てくるあの鳥ではございません。
戯
2006.3.31
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