店から出てすぐ、佐助はがいない事に気が付いた。
あれ、という表情のまま周囲をぐるりと見回して、近くにはいないことを知る。





「ちょっと目ぇ離した隙に………何処行ったかね、あのお嬢さんは」





台詞の割に対して困ってもいない様子で、佐助はを探し始めるのだった。










   鴻飛天翔 こうひてんしょう  第十八話










「こんな所であなたに会えるとは思ってもみませんでしたよ……遠方に足を伸ばしてみるものですね」





 どこか不規則な足取りの男   光秀の後ろを、はただ静かについて行く。


鴉に導かれ光秀に遭遇した茶店を離れ、今は人通りのない裏道に入っている。


建物によって制限された光を受けて、鬼火のように浮かび上がる光秀の銀髪を、思う所もなくじっと見つめる。





「何故……このような所にいらっしゃるのです、光秀様」





光秀の足が、止まる。
ゆっくりと振り向く相手に、は知らず緊張した。


一瞬でも気を抜けば、そのまま一呑みに喰らわれてしまうのではないかという畏怖を、目の前の男に対して抱いていた。





果たして、口を開く。





「退屈だったんです……とてもね。あまりに退屈だったので、こうして遠出したのですよ」

「…………浪人身分の私ならともかく、光秀様がこの地にいると知れて、要らぬ嫌疑をかけられたらどうなさるおつもりですか」

「それで戦の一つでも起これば退屈も紛れるじゃないですか」





にぃと目を細め笑う姿を、無表情に見据える。


の様子を見て、光秀は満足そうに笑みを深くした。





「まぁ……此処であなたに会えた事で、戦以上に楽しめそうなことが見つかった訳ですがね」








俄に光秀が近付く。
に抵抗する隙を与えず、素早く手を掴んだ。





そこで初めての顔に表情が作られる。





さっと顔を青ざめさせ、握られた手を反射的に見る目は引きちぎられんばかりに見開かれ。


光秀はの表情をつぶさに観察しながら、掴んだ手を口元に持って行き。





その小さな手のひらに、口づけた。





「私が触れた瞬間に見せるあなたの顔…………相変わらず、とても美味しそうだ」





囁くように言われ、手のひらにかかる吐息も相まってびくりと体が竦む。


気付けば掴まれた手が震えていた。





「……放して下さい」

「嫌です」





押し殺したような声で必死に頼むも、すげなく却下される。


手を解放されぬまま、光秀のもう片方の手がに伸ばされ、その頭を固定する。


逃げられないように片手と頭を拘束してから、己とは違う白さの首筋に顔を寄せ………強く歯を立てた。





「いっ……………!!」





苦痛の声が漏れるのも構わず、光秀の噛む力は更に増す。
食い込んでこようとする歯を押し返そうとする反発を僅かな間感じた後、ぶつりと音がして皮膚が破れた。


の首に寄せられていた口が離れ、じわりと滲み出てきた血をゆっくりと舐め取る。


その感触に怖気が走った。
今すぐ逃げ出したい衝動に駆られる。





しかし、思いとは裏腹に足は少しも動かす事が出来なかった。
見えない拘束具で、光秀にこの場所へ縫い止められてしまったように。








満足ゆくまで傷口に舌を這わせていた光秀の唇が、の耳の高さまで上がる。





「そろそろ戻ってきなさい。私の下に」





耳に直接吹き込まれるように囁かれ、そこで漸く手と頭が解放された。


高い位置から光秀が見下ろしてくる。
解放されて暫く、はその眼差しを真っ向から受け止めていたが、やがて堪えきれなくなり目を伏せた。
視覚が遮断された為に鋭敏になった聴覚に、砂の擦れる音が届く。


光秀が去るのだ。
認識が及び、段々と遠のいていく気配に、いつの間にか張り詰めていた気を緩める。








その刹那のことであった。








「近々この国は戦をするようですね」

「…はい」

「それに乗じ、この国……甲斐の虎の首を取り、私への土産としなさい」








事も無げに告げられた言葉に愕然として思わず目を開き、勢いよく顔を上げる。


光秀の姿は遠くなっていた。
後を追いかける事は、その背が封じていた。


言った通り、甲斐の虎の首を土産とするまで、戻ってくるなと。





逃げる事を封じられ、追いかける事を禁じられ。


為す術もなくは凝立し、足下へ視線を落とし、








「………………………………………………はい」








長い沈黙の後、小さく消え入りそうな声でたった一言、それだけを呟くのだった。




















 の姿を探して町を歩き、程なくして佐助は裏道にてその姿を見つけた。
すぐに声をかけようとして少し思いとどまり、一旦気配を消して近付く。


そっと背後に回って腕の中に収めたら予想外に良い反応を返してくれたのは昨日の事だ。


真っ赤になったの顔が想起され、佐助はつい苦笑を浮かべる。
非常に面白くはあったが、今気配を絶っているのは別に同じ反応を求めるが為ではない。


ある物を渡して驚かせたいと、そう思ったからだ。








昨日と同じように背後に立つ。
これ程近距離にいるというのに、はやはり気付かない。


その事に都合の良さを感じつつ、佐助は袂から「それ」を取り出し、の顔の横にそっと差し出した。





「探したぜ」

「…!!佐、助………か」





気配を現し声をかければ、びくりと身を竦ませてからが振り向く。


一瞬、敵を睨め付けるが如き眼差しを見せたが、視線がかちあって相手が佐助だと分かった途端、殺伐とした気配は霧散した。
きょとんとした顔で佐助を見上げ、次いで己の顔の横に差し出されている物に気付く。


それが何であるか認識した刹那、の表情が驚きに変わった。





「これっ………!?」

「あげる。欲しかったんでしょ?」

「……じゃあ、さっき店入ってったのって…………」





これの為……?


言い指され、佐助はちょっと面映ゆくなってそっぽを向いた。
見つめるばかりで手に取ろうとしないにそれを揺らして受け取る事を促す。








佐助が差し出した物、それは簪だった。
先程が小間物屋の店先で魅入られたように眺めていた物である。





「今度はそれ差して、町に来ような」





何気ない口調で提案すると、簪を受け取ったは少し意外そうに瞠目して佐助を見上げる。


断られることは覚悟の上だった。
娘であるのに、飾る所などないと真顔で言うにそんな提案をするなど。


案の定、は表情を曇らせ俯いてしまった。


そんな顔をさせるつもりなど無かったので、撤回しようと逸らしていた目を元に戻して。
そこでふと、白い首に生じる血の滴に気が付いた。


怪我をするにしては妙な位置である。





、血が出てる……」





それを拭おうとして手を出した刹那、佐助は瞠目した。








手を差し出すのとほぼ同時にが佐助の着物を掴み、身を寄せてきたのだ。


何事かと思うも、佐助の胸に額を当てて体を小さく縮こまらせるので、その表情が窺えない。


どうしたものかと考えあぐねている内に、が小さな声で言った。





「…あぁ……これを差して、二人で町を歩こう………いつか、きっと」

「……どしたの?てっきり断られるかと思ってたのに」





らしくない行動と言動に狼狽える内心を押し隠して訊ねてみても、首を振るばかりで答えてくれない。


胸元に温もりを感じた。
から伝わってくる体温だ。


再び首を振られ、佐助は何も言えなくなった。
それ以上問うことを、が沈黙することで拒絶していることに気付いたからだ。


一体何が彼女をそうさせているのか、気にならない筈がない。
しかし佐助は敢えて何も聞かず、そっとの肩を抱いた。





己より小さい体が、何か縋る物を求めているように見えたから。
それに、応える為に。








「……………ありがと、佐助」

「どういたしまして」








簪に対してか、肩を抱いていることに対してか。


呟かれた礼の言葉に、佐助は少しだけ腕の力を強めた。




















簪を差して、二人並んで歩く。そんな日は、決して来ないと分かったから。
分かる前の幸せだった一時に縋りたかった。
そんな思いに応えてくれたことが、ヒロインは嬉しかったんです。



2006.4.11
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