鴻飛天翔 こうひてんしょう 第十九話
武田軍に属することになり、立場は客から部下へと変わった。
けれど信玄の、に接する時の態度には、何の変化も見られず、寧ろ以前よりも親しく声をかけてくれるようになった。
幸村と同程度の年齢であるのと、戦う目的を一にしたことにより芽生えた同胞意識。
信玄の態度の理由を、はそう解釈している。
「明日出兵……ですか。それはまた急な………」
今は、縁側に腰を落ち着け信玄の湯呑みに茶を注ぎながら、目を丸くしていた。
例により手合わせの申し出もなく暇を持て余した所に、信玄から茶の誘いがあった。
近頃では一緒に茶を飲む機会が多くなっている。
曰く、と共に過ごしていると、幸村や他の者といる時より安らげるのだそうである。
これを聞いた時、は瞬時に信玄と幸村の拳での語り合いを思い出し、密かに納得していた。
その信玄から、たった今聞いたのだ。
明日出兵する旨を。
「随分前に兵達には伝えたのだがな……には伝わっておらなんだのか」
「いえ、全く」
訓練の相手には足らないと見なされ、今日まであまり兵らと関わり合う機会が無かった。
だから出兵の話が自分まで回って来なかったのだろう。
「そうか……明日までに準備は間に合わないか?」
問われ、は首を横に振る。
何日も前から準備しなければならない物など無い。
刀と、己の体さえあればそれで十分戦える。
強いて準備というのなら、精々が所刀の手入れくらいだろう。
「お館様の為、この身を戦に捧げましょう」
信玄に茶を差し出しながら、緩やかに微笑む。
つまりは命を賭けると言っているのに、まるで切迫した雰囲気のないに、信玄もつられるように頬を緩めた。
信玄が湯呑みを受け取るのを待って、も自分の湯呑みに口をつける。
空を見上げると、遙か高い所で、鳥が翼を広げゆっくりと渡っているのが見られた。
時の流れもゆったりとして感じられる鳥の動きを、しばし何か考えるでもなく眺める。
ふと、はあることを思いつき、空から隣の信玄へと目を戻した。
「お館様。肩、お揉みしましょうか?」
「おぉ、揉んでくれるか。有り難いが、どうしてまた」
「明日出兵してしまったら、次帰ってくるまでこんなのんびりと出来ないでしょうから」
のんびりし納めです、と言いながら、は信玄の後ろに回り、肩に手を置いた。
手の下に感じる筋肉を解すように力を込めれば、信玄が頭を俯けてじっとする。
翌日に出兵が迫っているとは思えない程穏やかな空気。
それに身を委ねるようにしていた信玄が、不意に口を開いた。
「よ……お主は佐助のことをどう思うておる」
「……どう、ですか………」
手は休めぬまま、は少し眉を顰めた。
先日千代に同じことを聞かれ、散々頭を悩ませたばかりである。
同じ内容の問いかけに少しうんざりとする反面、一度悩みに悩み抜いているが為に、返答はすんなりと口にすることが出来た。
「良い奴だと思います」
「他には無いのかね?」
「大切……だとも思います。ただ、佐助をどう大切に思っているのか………」
分からない、のである。
幸村に抱くような、友人としての「大切」とは違うことは何となく分かっていた。
信玄を親に近い感情で慕うような、家族に対する「大切」でもない。
ならば、と脳裏に浮かんだ選択肢については、今ひとつ自身が持てなかった。
それと同じ感情を、今まで覚えたことがなかったからだ。
勘違いかも知れない、とも思う。
答えのおおよその見当はついているのに、確証が持てない。
もどかしく思いながらもありのままそう伝えると、
「ふむ……他とは違うようだ、という認識はあるのじゃな?」
「はい………正しいのか自信はないですが……」
「よい、よい。それだけ分かっておるなら十分じゃ」
信玄は肩越しに振り返りながら言う。
向けられた横顔に宿る微笑を見て、はついきょとんとした。
その表情を受けて更に笑みを深くしながら、信玄の顔が正面に戻される。
湯呑みに残る茶をすする。
「事の正否など、ゆっくりと判断すれば良い」
武田にいれば判断の機会など幾らでも持てるのだから。
信玄の言に、一瞬の表情が失われた。
急速によみがえる、先日の町での一件。
判断する 機会など
一旦止まってしまっていた手の動きを再開させる。
の口元に笑みが浮かんだ。
だが目に表情は戻らず、正面を向いている信玄は背後のことに気付かない。
「……そうですね」
短いいらえの後にはそれまでと変わらぬ、ゆったりとした時間が流れる。
「ぅお館様ぁあっ!!」
その空間に、突如熱い叫び声が飛び込んできた。
ある意味予想に違わず、声の主は幸村だった。
駆け寄ってくる彼の後ろには佐助の姿も見える。
彼の姿を確認した途端、信玄に対するものとは違う感覚が起こった。
この感情の正体を知りたい。
けれど。
佐助はふと、自分に向かってが微笑むのを見た。
応えるように片手を上げて、佐助は何と無い違和感を覚えた。
何にどうおかしさを感じたのかは分からない。
内心首を傾げながら、縁側に集まる三人の姿を捉える。
「殿、肩揉みなら拙者が!」
「駄目です。私がやりたくてやってるんですから、この位置は譲りませんよ、幸村殿」
「ははは!早い者勝ちじゃな、」
信玄らと笑いあっている姿には、別段違和感はない。
一体自分は何をおかしく感じたのかと、先程のの表情と今見せている笑顔とを比べる。
答えは案外すぐに出た。
今見せている笑顔からは何も違和感など感じられない。
しかし先程自分に向けられたものは、どこか無理して笑っているような雰囲気があったのだ。
そして感情と連動していないその表情は、と出会って以来初めて見るものだった。
閑話休題的な、ちょっとほのぼのしたお話でした。
思うんですが、お館様の肩を揉むのって相当握力が要るんじゃないだろうか。
戯ならまず手の筋肉がつってギブアップする(断言)
戯
2006.4.16
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