鴻飛天翔 こうひてんしょう ―剣の舞―
「っぐぅ……!!」
不意に飛来した矢に右腕を射抜かれ、軍師山本勘助は低く呻き声を発した。
衝撃で体が後ろに傾いだが馬上にあった為、左手で手綱を握り締めることで何とか落馬だけは避けた。
四方を敵に囲まれた中での不慮の負傷であった。
体勢を立て直した所で、突き立っていた矢を左手で引き抜く。
「ここまでか……」
自分の状態と周囲の様子を見て、厳しい顔で呟く。
矢傷は命に届くものではなかったものの、右腕を負傷しては刀を握る手が緩んでしまうのは否めない。
率いてきた兵は皆散り散りになり、状況は四面楚歌。
この中で右手の力が制限されてしまったのは致命的だった。
片足が不自由なこともある。
一度落馬でもしようものなら、そこで自分の命運は尽きたものと言えよう。
否
命運、という所で、勘助の面に自嘲の笑みが浮かんだ。
思うように動かない右手の刀で、繰り出されてくる槍の穂先を何とかいなしていく。
命運なら、此度の策が見破られ上杉軍が八幡原に姿を現した時点で既に尽きていたのだ。
上杉を破る筈の策は武田の危機を呼び込んでしまった。
自分を信用し信頼してくれた信玄や同胞を、予期していなかったとはいえ裏切る形になったことで、自責の念が苛み。
気がつけば、僅かな人数を率いて戦場へと飛び出していた。
出て来てしまってから、浅慮であったか、とも思う。
だが、動揺して平時の思考を失った己では、これ以外の責任の取り方が浮かばなかったのだ。
切腹など、この状況からの逃避でしかない。
無駄に命を絶つよりは、自ら戦線へと立ち、切り崩されていく武田軍を立て直す。
立て直して、形勢を逆転させる鍵になる別働隊が到着するまで軍を保たせるのだ。
武田の為にこの命、この川中島の地にくれてやろう。
それが武田への最期の奉公だ。
「っ!!」
横合いから突き出されてきた槍に、刀を弾き飛ばされる。
宙を舞う刀が視界から外れていき。
勘助は、ここが己の死に場所だと悟った。
「勝って下され……お館様」
槍の穂先が迫り来るのが分かったが、馬上では身動きが取れず避けようがない。
死ぬだろうことを意識した。
ただ、勘助の心に満ちているのは、こんなにも早く命を散らせてしまうことへの焦りや、死に対する恐れではない。
あるのは、平安と僅かばかりの心残り。
歌を教える約束 反故にすること
許せ、と。
吾子にも思う者の姿を浮かべ詫びた時。
勘助の視界は、白く染まった。
上杉軍のある一団に幸村と共に飛び込み、相手が迎撃体勢を取るよりも先にまず一人斬った。
それからは向かってくる者から斬り伏せていく。
一個の軍に対したった二人の乱入。
しかしその効果の程は予想以上で、上杉の陣形はにわかに乱れ行軍が止まった。
「やはり殿よ…素晴らしい働き!」
「幸村殿こそ、上杉の者らが気圧されてるじゃないですか」
束の間空いた場所に同時に飛び込んで、背中合わせで言葉を交わす2人。
甲斐の虎若子と、本人は自覚していない、黄泉路へ導く白い鳥『鴻飛幽冥』。
二つの大きな存在が、明らかに無謀としか映らない一軍対二人の構図を普通とは全く違うものへと変える作用を果たしていた。
「これ以上の武田への接近、この幸村が相許さぬ!いざ!!」
互いに背を預け合ったのも一瞬、幸村は弾けるように再び軍勢へと駆け寄せて行く。
遠のく雄叫びを背に、は肩越しに幸村の進んだ先を一瞥し、
「……幸村殿らしい」
会話もそれなりに戦へと没頭していくのに、彼らしさを感じて笑みを浮かべた。
だがそれも一瞬のことで、すぐに表情を改めると、自分も彼に倣うように人の群れの中へと駆け込んだ。
武田からの思わぬ少数の奇襲に、足軽らなどは恐れて顔を強張らせていく。
足が竦んで動けないらしい者は捨て置き、少しでも戦意を見せた者には躊躇わず刀を振るう。
時がかかれば上杉方も落ち着きを取り戻し、たった二人の奇襲を押し潰しにかかってくるだろう。
そうなってしまっては、こうして敵の掌中へと飛び込んできた意味が無くなってしまう。
だから出来る限り迅速に、敵の戦意が立て直しのきかない程に叩きのめしておこうと、は動く。
「俺は無敵!」
不意に声が聞こえ、思わず淀みなく振るっていた刀を止めてしまった。
目を丸くして、敵の急所ばかりを見つめていた視線を宙へと彷徨わせる。
すぐに、こちらに向かって刀を掲げ駆けてくる上杉の武将らしき姿を見つけた。
「覚悟しろ!!」
振り下ろす間際の声は、の意識に届いてきた先程のものと同じ。
妙 。
敵将を目に収めたの評価はその一言に尽きた。
明らかに隙だらけで斬りかかってきたその男を、半歩ずれるだけで軽くかわす。
男は突撃してきた勢いのまま、避けたの横を行き過ぎて蹈鞴を踏み、
「うぉっ!?……ふ、この俺の無敵の刀をかわすとは、お前なかなかやるな」
良い敵を見つけた、とでも言いたげな目でこちらを振り向いてきた。
「………無敵」
その視線を受けながら、彼の口にした言葉の中で妙に引っかかる単語を反芻し、頬を掻く。
何とも反応を返しにくい相手と対峙してしまったものだ。
上杉の兵は指揮を執る者の腕が良いのか、非常に統率の取れたものを感じたのだが。
侮りがたさを抱かせていたその印象を、全てぶち壊してしまう何かを、この男は持っていた。
自分で自分を無敵呼ばわりとは。
最初の一刀を見る限り、『無敵』の名を冠するには少々腕が足りないように思う。
『無敵』に分不相応な腕と、腕に分不相応な自信。
それらの凄まじさに、不覚にも調子を狂わされてしまったのだった。
「貴様の腕を認めてやろう!全力で来い!俺は無敵!!」
「……呆れて敵の方から避けて行ってたとか……」
無いかな、それで『無敵』。
独りごちながら、その仮説の思わぬ信憑性の高さに、思わず自分で感心してしまう。
俄然勢いづいて、力一杯刀を振るってくる上杉軍の将。
その一太刀一太刀を全て避けるか受け流していくに、
「はははは、手も足も出ないか!そうだろう。何せ俺は無敵!!」
「…だから……」
ますます自信の程を深めてしまう敵将に、多大な呆れのこもった溜息を送った。
何度か刀を受けてみたが、やはり男に抱いた感想は変わらない。
これなら先程手合わせをしたくノ一の方がまだ武将格だ。
得るものの何もない打ち合い。
いい加減終いにしようと、刀を握る手に力を入れた時。
ふと耳に届く馬蹄の音。
「殿!!」
鬨の声の響く中、明瞭に聞こえてきた自分の名を呼ぶ声に、はその方向へと顔を向ける。
上杉の軍勢の間を駆け抜けて、一騎の騎馬武者がこちらに近付いて来ていた。
馬の背にいるのは、
「勘助殿!?」
本陣にいる筈の軍師山本勘助が、こんな最前線にまで出て来ていることに、は驚かされた。
その間にも騎影はどんどんと距離を縮めている。
上杉の将とが打ち合っている場の間近まで至るや、
勘助の馬は減速することなく上杉の将を撥ねた。
「ぎゃあああ無敵なのに轢かれたぁぁぁっっ!!!」
「勘助殿ーーーっっ!!?」
馬に弾き飛ばされてもんどり打って倒れる将を、唖然として見送る。
無敵無敵と五月蠅い男を、多少なりと蔑んでいた事実は認めるが。
流石にこの仕打ちには同情を覚えざるを得ない。
故意なのかそうでないのか、男を馬で撥ねた勘助はの前で止まった。
見下ろしてくる顔は険しいながら、どこか安堵したような色がある。
「無事のようだな……何よりだ」
「は、い……勘助殿、今、人を……」
「見た限り、下山したのは其方と幸村殿だけのようだな?」
「……はい。あの」
「武田の為と働いてくれるのは頼もしくもありがたいが、二人だけでは限界もあろう」
一度本陣へと退き体勢を立て直そうと提案してくる勘助。
こちらの訊きたいことには耳も貸してもらえない。
常であればこんなことはないのだが。
勘助が本陣から遠く離れた所にいる事も気にかかる。
どうやら余裕を失ってしまっているようだ。
軍師が余裕を失ってしまっては、正しい判断など下せるものではない。
は、じっと勘助を見つめた。
「……ここで私達が退いては、上杉方も立て直して攻めてくるのでは?」
「なに、幸村殿と殿、一騎当千の兵が帰ってきたのだ。やりようは幾らでもあろう」
こちらを誉めあげるようなことを言いながら、少しだけ笑顔を見せてくれる。
彼が軍師としての余裕を取り戻せる切っ掛けは、不思議なことに自分達にあるらしい。
「一騎当千」と称されたことに何と無い居心地の悪さを感じるのも、勘助がいつもの調子を取り戻してきた証拠だろう。
は少しだけ我慢して、一つ頷いた。
確かに、本陣から孤立して独自に動くよりは、きちんとした指示の下動いた方が効率的である。
「言い分は分かりましたが、幸村殿は…」
「既に了解を得ておるよ。余程お館様のことが気にかかるらしいわ。今は退く為になおのこと奮っていることだろう」
会話の間に、刀を握る勘助の右手に隙を見つけた。
握りが甘く、かばっているように感じられる。
負傷しているらしいと気がついたことも、この場を離れる判断材料の一つとなった。
「……分かりました。戻りましょう。」
は一旦退くことに決めた。
密かに、負傷した勘助を本陣まで護衛するという任務を己に課して。
まぁまず突っ込むべき所はあれですね。
『鴻飛天翔』にて、武田軍以外のキャラが登場したの、光秀に続いて二人目が兼続だなんてぶふー!!!
勘助はオリジナルなのでノーカウントとして、自分でもまさかここで兼続が登場してくるとは思いませんでした。
シリアスな話の流れをぶった切りたくなったんだと思います。戯が。
にしてもヒロインの無敵兼続への対応の冷たいことと言ったら(笑
さてさて。剣の舞九話。
冒頭で刀を弾き飛ばされ死を意識した勘助が一話も挟むことなくヒロインの所にやってきたのはどういう訳か。
戯
2008.1.25
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