鴻飛天翔 こうひてんしょう 第六話
任務で収集した敵方戦力の報告は、事細かに説明しても四半刻かからなかった。
「任務ご苦労であったな、佐助。ゆっくり養生するが良い」
報告を終えた佐助の前に悠然と座り、労いの言葉を掛けるのは、甲斐の国の主。
佐助が仕えている真田幸村の更に主君、武田晴信入道信玄である。
養生しろという信玄の発言に、佐助は少しく顔を綻ばせる。
低く見られがちな忍という職業の者を、信玄は決して卑下したりしない。
忍だけではなく、禄を与えている家臣達や、甲斐の国の民達に対しても、国主としての細やかな心配りを忘れない。
忍の働きで得られる他国の情報・情勢は、軍を動かす上で非常に重要なものであるし、
軍を動かすにしても、家臣や徴兵される民らの信頼が無ければ、士気に重大な影響を及ぼす。
信玄は、国を動かすにあたって人心というものの重要性を理解しているのだ。
理解しているから、家臣にも民にも忍にも心遣いを忘れぬし、またそうした心遣いあってこそ人々も信玄に心を寄せる。
幸村がその最も代表的な例であろう。
忍としての佐助もまた然り、である。
幸村程とまではいかないが、器の大きさを感じさせる信玄の為人が、少なくとも嫌いではなかった。
報告すべき事は終え、佐助は頭を下げ、辞去する旨を告げる。
それと時をほぼ同じくして、佐助が背にしていた襖が、騒々しくも勢いよく開け放たれた。
「お館様!!この幸村、無事国境を守り抜き敵軍を追い散らしてまいりました!!」
大音声と共に現れたのは、国境で一足早く顔を合わせていた幸村だった。
佐助が思わず目を瞬かせるのを、彼は少しも気に掛けない。
信玄に至上の信頼を置く彼は、戦闘の余韻で昂揚した気分のままに信玄に駆け寄り。
右の拳を握り締め、振りかぶるや、
「甘いわ幸村ぁぁぁぁっっ!!!」
「ぐはぁっ!!?」
幸村の拳の隙を縫った信玄に、いつもの如く拳の洗礼を与えられた。
耳を覆いたくなるような鈍い音がして、佐助が呆然とする前で、幸村の体が宙を飛ぶ。
肩口から床に落ち、そのまま滑っていって廊下の反対側の壁に激突し、そこでようやく止まる。
入ってきた襖の向こうにまで届く程強烈な一撃だった筈なのだが、俊敏に体を起こした幸村の顔に苦痛の色は見られない。
廊下から信玄に向けられる眼差しには、むしろ喜びが満ちあふれている。
「幸村よ、此度の首尾は既に耳に入っておるぞ。誠にご苦労であった」
「お館様……っ!!」
「しかし幸村よ、此度の勝利に慢心する事無く、己が為、今後も精進せよ!!」
「はい!!うおおお燃えてまいりましたぞお館様ぁぁぁっっ!!」
「幸村っ!」
「お館様ぁぁっ!!」
「幸村ぁっ!!!」
子の刻をとうに回った時間帯に始まる、主従二人の殴り合い。
国境強襲の報に、屋敷にいる者の殆どが起きているとはいえ、この時分に二人の大音声は迷惑極まりない。
それでも、毎日のように繰り広げられている「これ」に、屋敷に仕える者達は文句の一つも表さない。
戦に於いては勝ち星をあげ続ける名将で、且つ誠実で憎めないような人柄が、信頼を得ているのか。
それともただ単に、日常茶飯事過ぎて諦めの境地というか、当たり前の事として受け入れてしまっているからなのか。
理由は 天のみぞ知る ってね 。
鈍い音が聞こえて、「あ、今骨に入った」などと冷静に状況を捉えながら。
佐助はなかなか盛大に、溜息を一つ吐いた。
断続的に殴り合う音が発生し続けて、しばらく。
「……む、そう言えば佐助、あの方はどうされた?」
互いの拳で互いに吹き飛び、殴り合いにも一段落ついた頃、身を起こしざま幸村が問うてくる。
殴られてやや腫れぼったい顔を、血と汗と涙が汚している。
「あの方、とな?」
幸村の問いを耳にした信玄もまた、訝しげに佐助に向けられた。
二人の眼差しを受けて漸く、佐助はを救護所に預けてきた事を思い出す。
慣れてはいても、あれだけ強烈な殴り合いを見たら、他の事が吹き飛んでしいまっても仕方がないと思う。
佐助は一人で自分に言い聞かせ、一人で納得した。
話が見えない信玄に、佐助は己が肩を負傷した際に雇った者だと、ごく簡単に説明した。
「因みに、今の夜襲に対しても手を貸してもらいましたよ」
「なに」
これまでの経緯の最後に今日の出来事を付け加えれば、信玄の顔色がみるみる変わった。
「我らの為に働いて貰ったともなれば、礼を言わねばなるまいの。して、その者は何処に居る?」
即座に居住まいを正すや、を呼んですぐにでも礼をしようとする。
それに応える前に、果たして今会えるだろうか、と逡巡し、今日は無理だろうと判断を下した。
「今日の件で、ちょっと負傷しちゃいましてね。明日落ち着いてからの方が良いと思いますよ」
ちらりと幸村を盗み見る。
の負傷の事を口に出した瞬間、彼の表情が俄に硬くなったのは気のせいではないだろう。
その怪我は自分が負わせたものだと察したに違いない。
幸村の性格上、放っておけば己の不始末を包み隠さず信玄に打ち明け、二度目の殴り合いが始まるに違いない。
面会時期の提案は、そうした真夜中の大音声を未然に防ぐ為の策でもある。
佐助の策は功を奏し、幸村が口を開く間もなく、信玄は承諾の意を表した。
「うむ、それは大事じゃ。体を労り、今はゆるりと休まれるが良かろう」
「了解。俺はこれから様子見に行くんで、大将の今の言葉伝えておきますよ」
「あぁ佐助、その者の所へ行くなら、部屋を用意する故そこで休まれよと伝えてくれぬか。時を改めて礼を言いたいともな」
「御意〜」
信玄は、の事をどう思うだろうか。
ふとそんな事を考えながら佐助は、随分前に表したように感じられる辞去の旨を再び告げ、信玄の部屋を後にした。
服の上からの触診。
指先で患部を押される度に、広範囲を針で刺された様な鋭い痛みが生じて、堪らずきつく眉を寄せた。
「折れてはいないが、ひびが入っているようだな………痛むか?」
医師に訊ねられて、は素直に頷く。
一方で思い浮かべるのは、ここまで運んでくれた佐助に対する申し訳なさ。
肩に傷を負っている右腕では支えられない為、右手で武器を、左腕でを抱え、ここまで走ってきたのだ。
体格差があるといっても、人一人を運んで来るには随分と負担も大きかっただろうに。
「………後で、運んで貰った礼を言わなきゃな」
苦しいとも辛いとも、一言も言わずにここまで運んでくれた佐助に、感謝する。
「何?」
「……いや。ひび程度で済んで良かった」
「ひび程度だと?そんなに強く打たれたのか?」
医師の驚いたような口ぶりに、えぇまぁ、と言葉を濁す。
この国の武将であろう男の槍のせいだとは、何となく言い出しにくかった。
の何とも煮え切らない態度に、医師は怪訝そうに首を傾げている。
が、気にしない事にしたのか、一つ手を叩くと、
「まぁ、良いわい。手当するから、上着を脱ぎなさい」
医師として、当然の発言をしたのに対し、
は、ぴくりと微かに眉を跳ね上げる。
その顔に、初めて狼狽えるような色が浮かんだ。
夜の縁側を音もなく歩く。
もう少ししたら事後処理や何やらのごたごたも収まり、屋敷に正しい夜の静けさが戻るだろう。
つい今し方、国境防衛の為に人死にが出たという事も覆い隠してしまうように。
詰め所の前まで来て、振り返り、軒の向こうにちらりと目をやった先に、朧な輪郭で仄かに光る月。
手当は終わっただろうか
仄かに発光している様が、戦場で出会った夜のの白い着物を思い出させる。
手当ての首尾を気に掛けながら、詰め所の戸に手を掛け、引き開けて。
「要らん」
絶妙の間合いで聞こえてきた、断固とした拒絶の声に、佐助は少々面食らった。
「何事?」
「おぉ、佐助殿!」
戸の近くにいた医師の目が、入ってきた佐助を振り返ったが、他の者の眼差しはある一点へと集中している。
どうやらその視線の先に、負傷者でごった返しざわめく詰め所で一際響いた声の主がいるようだ。
「いや何、先刻佐助殿が連れて参った方が、の……」
言い淀み、視線を前へと戻す医師の動作に、何となく嫌な予感が過ぎる。
先程佐助が連れてきた者といえば、あの一人しかいないではないか。
あまり見たくない気もするが、見ない事には始まらない。
医師と他の負傷者達の視線が向く先、部屋の奥へ視線を投げる。
手当を受ける他の者達とは雰囲気を異にした、一画。
互いを牽制しあうような顔で向き合う、医師とがいた。
お館様と幸村のかけ合いどつき漫才が大好きです。(漫才じゃない)
とっても好きなのに、上手い事それを表現できないのが悩みです。ぐふぅ。
着物を脱げって言われて狼狽えるのは…………まぁ読める所ですよね。
次で佐助も気付きます。
戯
2006.3.15
2008.3.6 加筆修正
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